さらさらと。髪の毛を撫ぜる風が吹いた。
カーテンの隙間から射し込む光が枕元を照らし、半分ほど開いた窓から風がそよぐ。
小鳥のさえずりを浮上した意識の片隅で聞き、は薄っすらと瞳を覗かせた。

あぁ、朝だ。

直接瞳に光を取り込み、は再度眠りにつこうとした。欲のままに。
だが。


「………え?…朝ぁ!?」


ガバリ。
覚醒したばかりの頭を無理矢理起こし、潜っていた布団を退ける。
髪の毛はボサボサで寝癖が酷い。しかしそんな事を気にしている場合ではないのだ。

朝だ。外を見ても、目覚まし時計を見ても、朝である。

完全に覚醒した頭は、しかし時間を脳に伝達した時点で凍りついた。


「遅刻だっ…!」


ヤバイヤバイ。何がヤバイかって?そりゃあモチロン、アレだ。
は急いでベットから下りると一目散に携帯を見た。見てしまった。
これを見たが為に、意気消沈。遅刻?何それ。どーでもよくね?


「担任から着信…23件…怒ってる…確実に、殺される…!!」


いやいや。朝っぱらから何そんな物騒な事を。
しかしの言葉はそのままの意味を示していた。
あの担任の教師は毎度毎度『殺す』やら『死ね』などを平気で使う、鬼だ。
アレは違う事無く、人間の皮を被った鬼なのだ…!いや、もっと恐ろしい者かもしれない。
これほどになく恐怖を植えつける担任とは一体なんなのか。だから鬼ですってば。


「あぁあぁぁああどうしよう!どうしたらいいのねぇムー●ン!!」


恐怖のあまり不可解な言動をするは、寝癖だらけの頭をかき乱し更にボサボサにする。
両手を振りかざし、と思ったら立膝になって座り込み、両手は床についた。さながら絶望したポーズ?である。コレ→ ○| ̄|_
誰か照明を当ててあげて欲しい。傍から見れば何やってんだコイツ。といわれることに拍車がかかるだけだが。

は途方に暮れていた。どう、言い訳すればあの『鬼』は許してくれるだろうか、と。
アレは鬼は鬼でも人のこぞ。…多分。むしろ化身でもいい。そうじゃないと納得がいかない。

そんな埒も明かない、解決の糸口にもなりゃしない事を考えていると何処からかバイブ音がした。
それは紛れも無くベットの無残にも放り投げてあったの愛用している携帯からである。
何故あんなにも着信があったと言うのに気付かなかったのか。それはマナーにしていたからであると自己解決。

出なくてはイケナイ。しかしそんな勇気は持ち合わせて居ない。
そうでなくとも最低23回もシカトしていることになるのだ。出辛いのもわかる。のだが、出なくてはもっと酷いことになるのは明白。
ドクドクと心臓が脈を打つ。動悸息切れが酷い。だれか某黒い玉の薬をおくれ。切実に。

バイブが振動する。もうそろそろお馴染みのお姉さんが対応してくれるだろう。それを待つか否か。
答えは決まっている。あぁ、私は腹を括るしかないのだろうね。

ピッ

「お客様がお掛けになった電話番号は現在…」



「何をしている?」



ちょっとした場を和ませる冗談もスルーされた。それほどこの鬼は怒っているのだと、考えなくてもわかってしまった。
というかこんな時にそんな冗談言える度胸があるのだと、は自分で歓心してしま・・・いそうになる。
背中に冷たいものが滑り落ちる。は恐怖のどん底に落とされた。


「はいごめんなさい…」


耳に届いたのは紛れも無くあの鬼…もといの担任だ。
低くてよく通る声はの大好きなもの。しかしその声が告げる言葉は大嫌いなものでもある。
目に見えぬ威圧感には思わず謝罪をした。ちょっとだけ声が震えたのは致し方ないものだと思おう。



「今、何時だ。貴様は何度電話を掛ければ出る?…人をおちょくってんのか、あ゛ぁ゛!?」


「ひぇぇえええええ!ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ、」


「謝罪はいいから、さっさと来やがれこの馬鹿娘ぇ!!!!」



電話越しではなく目の前に居たら確実にハリセンが降りかかってきていただろう。
今は目の前に存在しない事を安堵しながら、しかし登校したら真っ先にアレを喰らうのは目に見えていて。
恐怖に震えながらも、は勇者よろしく、勇敢なことを口走ってしまったのである。お馬鹿。


「それが、風邪を引いてしまって…ゴホゴホ」


我ながらにいい演技だと思う。しかし、普通にバレバレである。あぁお馬鹿。


「俺にそんな嘘が通用すると思うなよ…数学の課題、5割り増しだな」


どうやらもっともっとお怒りをかってしまったらしい。当たり前だ。
先ほどの狂言さえ言わなければ最大の難関、数学の課題を増やされなくて済んだものをは見事に獲得してしまったらしい。
折角いい提案だと思ったのに、なんぞ慮るこの子に制裁を。は見事なマヌケ面をさらしながらも、賢明に謝罪する。


「スミマセンデシタ今から速攻で行きますゴメンナサイ」


見えない相手に土下座までして本当に傍から見れば不審人物この上ない。
携帯越しだから見えないのは当たり前だが、通話の相手はの行動が手に取るようにわかった。
涙声になっているにため息を吐くと電話越しの美声は飽きれた口調で言葉を紡ぐ。


「10分以内に来れば追加課題は免除してやらないことも無い」


ぴしゃりと言い放つとそのまま通話は途絶えた。無情にも通話の終わりを告げる機械音がの耳に届く。
そして、思う。


「10分とか、無理だし!!!!!」


の絶叫は下に居た母親にまで届いたとかなんとか。確かなことはこの後、母親の怒号が轟く事であろう。




自転車で飛ばしても最低20分はくだらない距離だ。普通に考えて無理に決まっている。



























「おや、三蔵。何をそんなに怒っているのですか?」

「うるせぇ…クラス唯一の問題児がまたやらかした」

「あぁ、さんですか。だからそんなに…。怒ってばかりいると遅刻どころか登校拒否になってしまいますよ?」

「アイツにはこのぐらいが丁度いいんだよ。ったく…世話の焼ける馬鹿娘だ」

「満更でもないようですけどね」


所々に何か引っかかりを覚える言い方をする男に三蔵と呼ばれた男は握りつぶそうとされていた携帯を徐に机の上に投げつけた。
結構な音がして周りの人は目を向けるが、またか、と思い気にせず視線を戻す。

この怒り奮闘したご様子の金髪男。傍から見れば美丈夫で、しかしチンピラの様な言動をし、見た目と大層違う印象を与える。
名を三蔵。お気付きの通り、の担任であり、先ほどの通話相手である。
三蔵は尊大な態度で椅子にふんぞり返り長い足を乱雑に組むと重々しいため息を一つ。心底疲れたと言った様子だ。
それを隣から苦笑して見つめるのは古典担当の八戒先生。よき保父さんとして校内ではとても有名である。
三蔵も色々と有名なのだがあえて何も言うまい。言わずと知れた…であるのだよ。

そんなこんなで、只今1時限目の授業中。2人は特に担当している授業がないので三蔵は遅刻娘に電話。
八戒は偶々通りかかったところ、三蔵の不機嫌さに磨きがかかっているのを見越して声を掛けたのだ。
この様子からするとこちらもかなり有名な問題児関連だと言うのは考えなくてもわかる。
問題児といっても不良だとかそんな類のものではないのだが、いっつもいっつもこの鬼…三蔵に目をつけられた存在。
それが1番影響して、有名になった。そしてその問題児にいつも苦労させられている三蔵は飽きもせず毎回毎朝格闘しているのだった。

モーニングコールなんて可愛らしいものではないが、普通の教師はこうも度々遅刻する者を毎度気に掛けるものなのだろうか。
普通なら途中で見放すだろう。しかしこの三蔵と言う男は、この問題児とのやり取りを気に入っているのだと八戒は推測する。
そうでなければ説明がつかないではないか。こんな他人に興味が全く無い鬼畜な男が1人の問題児を特別視していると言う事実を。


(ただ単に面白がっているだけではないでしょうね。バレバレですよ三蔵)


毎朝好き好んで電話をすると言うのは一体何を意味しているのか。隠しても隠しきれて居ない三蔵の態度で一目瞭然である。
当人は気付かれて居ないと思っているのだが。ココは黙っておくに限る。そうでないと面白くない、と言うのが八戒の考えだ。


時刻は既に1時限目の半時を過ぎていた。それもそのはず、の家から学校までは多く見積もっても20分以上はかかる。
三蔵は不可能な時間を指定したのは別にこれといった理由は無い。遊んでいるだけなのだ。本当かどうかは置いといて。
無理難題な事をしれっと告げた三蔵は容易にその時のの表情が目に浮かぶ。
きっとマヌケ面していたに違いない。それにしてもあの涙声は…。

別にニヤケていたわけではない。しかし三蔵は未だ隣から注がれる視線に悪寒がした。
にこにこと普段とは注意深く見ないとわからないぐらいに笑みを深くした八戒が、ソコに居る。


「……なんだ」

「いいえ?別になんでもありませんよ」


意を決して三蔵は視線の元に一気に不機嫌になった声を投げかける。
一方、真正面から攻撃的な声を受けても物ともしない八戒は一層笑みを深くし、そして何か企んでいそうな笑顔になった。
嫌な予感…。それは見事に的中するのだがそれはまた別の話。
今は何と無く居心地が悪くなった三蔵は居住まいを正すと咳を一つ。そして何事も無かったかのように用の課題作りに取り掛かった。
ふと視線をやると、職員室から見える正門に自転車を猛スピードで駆ける姿が見えた。











「ぜぇ…はぁ…うっぷ」


は全速力で学校までたどり着いた。自転車を駐輪場に置くとこれまた全速力で駆け抜ける。
昇降口まで程よい距離を全力疾走だ。まだ長袖の制服に薄っすら汗がしみこむ。毎朝ご苦労なことである。


「やっと…着いた…死ぬぅ」


昇降口に入ると汗を掻いた肌に丁度いいくらいのひんやりとした空気が纏わりつく。
急いで靴を履き替えると今度は遅刻の報告に職員室に行かなくてはならない。
確か鬼の授業は無い時間帯のはず。相当お怒りの様子だと思われる鬼を想像すると、とても怖かった。
それでもいかなくてはならない。その義務感がを職員室へと駆り立てた。

クタクタになったは誰も居ない廊下を歩き、この角を曲がった所にある職員室に向かう。
この校舎の1階は通常の教室は無く、とても静かだ。しかし、の他に足音が聞こえる。
誰か忘れ物でもしたのだろうか。そういえばグラウンドでは下級生が体育の授業をしていた。
その誰かだろうという思考に至ったはそれなら何の問題もないだろう…と、高を括ったのが間違いだったと後悔するのは直ぐソコで。
何気なしに角を曲がり、かったるそうに歩く。あぁ、目の前におわすお方はには見覚えが。


「おせぇ…今何時だと思ってやがんだ貴様は」


ドスのきいた声が静寂な廊下に木霊する。ビクリ。思わずは身を竦めた。
嫌な汗が全身を流れるのを感じる。まだ心の準備も整って居ないのになんで、鬼が、いるんだ。
はそろそろと顔を上げると、目の前には金髪の、今朝電話越しに会話をした担任の姿があった。


「ごめ、んなさい…!」


引き攣った顔で瞠目するを見て目の前の男、三蔵は眉間に皺を寄せ禍々しいオーラを背負っているように見える。
の心臓は張り裂けそうなくらいドクドクと脈を打つ。毎度の事ながらこの瞬間はいつになっても慣れないものだ。…慣れたらイケナイのだが。


「貴様と言う奴は学習すると言う事を知らんのか。毎度毎度遅刻、おまけに反省の色なしとは…救いようのねぇ馬鹿だな」

「……はい…」

「毎朝苦労させられるこっちの身にもなれ。この調子じゃ進学できるかわかったもんじゃねぇぞ」

「すみませ、ん…」

「ったく…ホラよ。今日の課題だ。放課後までにやって俺に提出しろ。今回はこれで許してやる」

「ありがとうございます…グスッ」


既に涙目のを見て少々痛めつけすぎたか、と三蔵は思った。
しかしこの問題児は新学期から数えて最低46回程…ほぼ毎日遅刻すると言う最低最悪な常習犯である。
毎度キツイお灸を添えてやっているのだがイマイチ学習しない。だが休まないのは褒めていいのだろうか。

三蔵は知らず知らずのうちに手が伸びの頭を撫でていることに気がついた。
本当に落ち込んでいるもんだから何故かこっちが悪者のように思えてくる。
自分でもわからない感情が胸を刺激し、手が伸びていた。深い意味は無い。そう自分に言い聞かせて。

一方頭を撫でられているは驚きに目を見開いていた。
俯いてその表情はわからないものの、顔が赤くなっているのは明白である。
説教の後に優しくするなんて…飴と鞭戦法ですか、なんて見当違いの事を考えた。
ドクドクと先ほどと違う心臓の高鳴り。悟られてはイケナイ。これにはきっと深い意味は込められていないのだから。


「さっさと教室に行け。もうそろそろ1時限目が終わるだろう…次は移動教室だから遅れるなよ」


こんな問題児だが根は至って利口。しかし朝に弱いのが欠点。
成績もそれなりで遅刻を除けば優等生に入るのだが如何せん、遅刻と言うのは良い印象を与えない。
これで2時限目も遅刻なんてしゃれにならないであろう。それを見越しての言葉だ。


「朝からご迷惑をお掛けしました…すみません」

「わかってんなら遅刻するな!この馬鹿娘」


優しいのか厳しいのか…どちらかと言うと鬼なのだが、三蔵の瞳は至って優しさを帯びていた。
それに気付けなかったは踵を返し、己の教室へと向かう。とても寂しい後姿である。


「はぁ…俺もかなりの物好きだな」


三蔵の呟きは蕭然とした廊下に消えた。誰にも聞かれることもなく。














ぽてぽて。所々から授業をしている教師の声が聞こえてくる廊下。は教室に続く道のりを沈んだ様子で歩いていた。
朝からあんなに怒られれば当然である。悪いのはの方だからその落ち込み具合は計り知れない。


「先生…きっと毎朝遅刻する私に呆れてるよなぁ…今回ばかりは見放されちゃったかも」


先ほどの涙が乾かない内にまたもや涙腺が緩んできた瞳に課題のプリントを映し、ため息一つ。
今日はなんだか覇気がなかったように感じられた。先生は本当に疲れているんだろう。あのハリセンが飛んでこないなんて。
自分のせいで要らぬ手間をかけさせて、本当に迷惑極まりない問題児だ。


「でも、なんで先生は毎日電話掛けてきてくれるんだろ…いい加減めんどくさくないのかな」


今までの教師はいつも遅刻3回目位になると揃ってを見放してきた。一々1人の生徒に余計な労働をしたくないのだろう。
それと全然治そうとしない(そう見えるだけなのだが)に呆れて声も出ないと言った感じだ。
それなのに。三蔵は違った。態度はあんなに尊大でめんどくさがりっぽいのに、以外に頑固で完璧主義者だ。多分。
自分のクラスに問題児が居るなんてことは先生の経歴に傷をつけてしまうのではないか。そうかそれで…。


「明日は起きれるかな…はぁ……」


勝手に自己解決して勝手に自己嫌悪に陥ったはその沈んだ思考の端で1時限目の授業終了を告げる鐘の音を聞いた。







時は過ぎ、放課後。

あの後、移動教室にも遅れず朝遅刻したと言う事実以外にめぼしい問題は起こして居ない。
昼も仲の良い友人と食事を取り沈んだ心を回復させたは休み時間の合間を縫って追加課題、もといペナルティをせっせとこなし先ほどほぼ完成させたばかりだ。
通常より5割り増しと言う膨大な量をこなせたのは、プリントの内容が少しばかり簡単たっだからであった。これは三蔵の優しさだろうか。
よく見れば遅刻してあまり勉強していない部分だけを抜粋してあるようにみえる。やはり鬼であっても人の子…ではなく、根は優しい先生だと言う事だ。

今は生徒の数も少なく、殆どが部活やなんやらでHRが終わると速攻で教室を出て行った。
その中に親しい友人も含まれており手伝ってくれるような人は居ない。
残りのクラスメートはもう帰り支度を整え教室を出る寸前で解らないところを聞く余裕など皆無。
仕方が無いので、最後の応用問題を自力で解き始めた。ちなみに担任はHRが終わると共に八戒に呼ばれ出て行ったきりだ。

は応用問題と言うものが苦手である。例を挙げると今までりんごで計算されていた問題が突然みかんに変わると解けなくなる。
そんな単純な事で悩むは一体…。まぁ今の例題は少々大げさ過ぎではあるが。


「なんで最後の最後でこんな難しい応用問題が出てくるのさ!?やっぱ鬼…」

「誰が、鬼だって?」


ギクリ。突如としてこのいつの間にか誰も居なくなっている教室にドスが効いた声が降って来た。
独り言に態々ツッコミを入れてくるその人物は先ほど呼ばれて出て行った担任そのもので。
は一気に青ざめると硬直させていた体をそのままに視線を巡らせた。

チラリと視線を動かすとドアに寄りかかり鋭い視線を向けてくる担任、三蔵がそこに居た。
ハッキリ言って一教師のものではない、と誰もが思う凶悪面。あぁ、私はココで殺されるんですねわかります。
冷や汗を掻きまくるはその射殺さんばかりの瞳に釘付けだ。これは見つめ合うなんてそんな生易しいものではない。
蛇に睨まれた蛙状態である。絶体絶命の窮地。まさにそれだ。


「貴様と言う者は…口の減らん奴だな」

「いや、つい口が滑って」

「ほう…。碌な事を言わんそんな軽い口は捨てろ。今すぐだ」


そんな無茶な。
思わずツッコミたくなる口を抑え、は必死に謝罪の言葉を考えた。しかしそれも目の前に来た三蔵の威圧感に思考は停止させられる事となる。
引き攣った笑みを浮かべ既に涙目の彼女に三蔵は深々とため息を1つ。過剰反応しすぎだこの馬鹿娘は。
呆れた様に顔に手を当ててため息を漏らす三蔵に、は今度ばかりは見放されたと一層涙がこみ上げてきた。


「ごめんなさいぃ…」

「わかったから、泣くんじゃねぇよ」


クシャリと無雑作にの頭を撫ぜる三蔵。別に泣かせたいわけではない。
ただ鬼にされる謂れはないだけである。それ相応の威圧感をかもし出したのは事実だが。


「あの…最後の問題がわからないんです…ごめんなさい」

「あぁ?こんな問題も出来んのか」


一々謝るなと言いたいところだが脅えた様子のを見ると、これ以上言葉にするのは更に悪化させてしまう可能性がある。
だから渋々口には出さず勇気を振り絞ったであろう問いかけに素直に応じることにした三蔵であった。


「だから、このxは移項して云々かんぬん…」

「へぇ…あぁ、だからこうなるんですね!」

「そうだ。よく考えれば出来るじゃねぇか」

「へへへー。伊達に優等生気取ってないですよー」

「遅刻魔のお前が言うな…」


三蔵のわかりやすい解説付きで応用問題も簡単にできた。ものの数分もしない内にアッサリ解けてしまったのだ。
ちょくちょく言い合いもしつつ、課題も完成したは喜びの笑みを満面に浮かべ花が飛ぶ勢いである。
先ほどのビクビクと脅えていた姿は微塵も無く、2人を取り囲む空気は穏やかなものだった。


「はぁー終わったー。やっぱり先生は教師だったんですね!」

「どういう意味だこの野郎…本当に口の減らない奴だなお前は」

「だって見た目と違って教え方も上手いしホント、ギャップがいいですねぇ」

「何のことだ」

「いい先生に恵まれては嬉しいんですという事です!」

「…そうかよ」


夕焼けが室内を照らす黄昏時。満更でもない表情の三蔵と嬉々としたは珍しいことに会話が弾んだ。
今までに無かった一時に内心驚きながらも正直嬉しかったのは事実。
普段授業で喋る以外は無口だと思っていた三蔵が言葉短いながらも会話を成立させ、尚且つ楽しそう…なのは錯覚だろうか。
ほぼが話を振り、それでいて意外な切り替えし。そこから話が広がり時間も忘れ2人は前代未聞の会話最高記録を成し遂げたのである。

そろそろ潮時か。辺りは既に暗くなっており、西の彼方は紫色になっていた。
夏は近いがまだ肌寒さを感じさせる時期で完全に日が暮れた夜の空気は寒い。
は身震い一つすると、もうこんな時間なのか、と時間も忘れ話していたことに驚いた。
それは三蔵も同じだった様で一息つくと完成された課題プリントを受け取り席を立つ。
それに習っても帰り支度をし、終わると後ろ髪を惹かれる思いで三蔵と共に教室を後にした。


「夜の学校って怖いですねぇー」

「明かりがついてるだろうが」

「そうじゃなくてですね、雰囲気がこう、恐ろしいと言うかなんと言うか…」

「はっ。意気地ねぇ」

「なにおー!先生は宿直で夜の見回りとかで慣れてるんでしょうが私は初めてなんですー」

「ったく…1人じゃねぇんだからそう怖がんなって言ってんだ」

「それもそうですね。まぁ幽霊も恐れる鬼教師が傍らに居るんですから心配はないですな」

「貴様…」


こんな短時間で軽い悪態も吐ける様になったとは。放課後の補修もどきは急速に2人の距離を縮めたのは言うまでもない。
蛍光灯が灯っていても薄暗い廊下を歩きながら、なんだか残念な気持ちにさせられる。
明日も登校すれば会えるのだが、先ほどの空間がとでも心地よくて。それが終わりなんだと思うと物悲しかった。


「おや?まだ居たんですか2人とも」


昇降口に着くなり今帰る気満々の八戒に出くわした。
こんな時に厄介な奴に会った、と内心舌打ちする三蔵を他所に八戒はいつものように笑顔で、しかし物珍しそうに2人を凝視する。
あの例の問題児とその問題児に手を焼かす三蔵が、と。
勘違いなのだが何かを察知した八戒は笑みを深めると唐突になんら脈絡も無い発言をポロリ。


「もう暗いですから三蔵が送って差し上げてください」

「なっ」
「えっ!?」


2人の驚く声は静かな昇降口に轟いた。


「これも教師の役目ですよ。三蔵」



















こんな筈では無かった。決して、そんな。
第一この助席に座る彼女は自転車で来ていて明日は何で行くんだと問題点がたくさんある。
それにこんなところを他の教師や生徒に見られでもしたら、大問題なのではないのか。

そんな考えが三蔵の頭の中をぐるぐると駆け回る。あぁ、今日は厄日か?

一方優雅なハンドル手さばきを横目でチラチラと窺うは内心、舞い狂う始末だ。
まさかこの運転席に座る彼の車で送って貰えるとは夢にも思っていなかったからである。
しかも後ろではなく、隣。即ち助席と言う、天変地異が起きない限り乗れないであろう希少価値の高いポジション。
もう天然記念物みたいなノリでもいいだろう。しかしはそのビップな席に座っている。
これはかなり大変な事ではないのか。放課後の一時といい、あぁ、今日は大吉間違いない。
でも誰かに見られたら大変だろうなぁ。特にファンとか見たらうわぁ…恐ろしい!

正反対の思考が交差する車内で2人は各自思い思いの事を考えながら流れ行く風景を横目に寡黙だ。
小音量で流れる音楽はラジオから。それだけが車内に木霊するだけである。

この密室と言う前代未聞な体験真っ只中のはこれではイケナイと想い、先ほどのテンションで乗り切ることを決意した。


「あっはは…八戒先生も人が悪いですよね…。もし見つかったらどうするんでしょうか」


沈黙。
しまった。墓穴を掘ったか。後悔時既に遅し、今度はとっても居心地の悪い空間の出来上がりである。
は必死にこの場を取り繕うとしてアタフタと誰から見てもおかしな行動をした。
これが幸いして三蔵は思わずクツクツと笑いを漏らしてしまう。笑った。あの鬼が笑った。これを一般的に『鬼が笑う』と言うものである。嘘だけど。


「あの、先生?笑った?ねぇ今笑いましたよねぇ!?」

「…何の、事だ」

「ちょ、隠しきれてませんって!そんなに私がおかしかったですかそうですか」

「お前が意味不明な動作をするからだろうが。手が滑って事故ったりしたらどうしてくれる」

「それは駄目です!私まで巻き添え喰らうじゃないですか!」

「丁度いいじゃねぇか。少し痛い目みんと馬鹿が直らんだろうからな」

「先生こそ頭ぶつけてその石頭を砕ければ少しはにこやかになれるんじゃないですかー?」

「減らず口を…明日は課題9割増しな」

「卑怯だー!」

「なんとでも言え」


一気に騒がしくなった車内。よかった。場が和んだようだ。
不本意極まりない事で笑いを取れたが、しかし課題がまた増えてしまった。
幸か不幸かわからないけれど今がよければそれでよし、と割り切れたらどんなに楽か。
はこの場の雰囲気を引き換えに膨大なペナルティを授かることになったのである。


「あ、ここを右で、道なりに行けば直ぐそこです」

「あぁわかった」


そろそろこの空間ともおさらばだ。やはり物悲しいことこの上ない。
僅かな道のりだったけれど、それなりに楽しめたのだから満足しよう。
いっその事このままでいれたら。あまよくばドライブ…なんてことにはならないだろう。確実に。

は家の前を指定すると車は静かに停車した。余韻も去ることながらは三蔵に向き直る。


「送ってもらっちゃってありがとうございました」

「明日は遅刻するなよな」

「あーそれは…努力します!」

「お前な…」


呆れかれる三蔵を傍目には意気揚々と逃げるように車から降りた。
目の前には家。ちゃんと遅くなると言っておいたから心配はしていないだろう母が出てくる気配も無い。
そして後ろには今しがたまで乗っていた三蔵の車。多分が家に入るまで見届けるつもりだろう。動く気配が無い。

はくるりと踵を返すと窓の高さにあわせてかがむ。

おかしいな。一生の別れでもないのに、寂しい。悲しい。離れたく、ない。
この思いが届けばどんなに嬉しいだろう。でも反対に知られたくはないと言う複雑な感情が入り混じる。
きっと珍しい事柄が重なった所為だ。だから、こんなにも。


「じゃあな、」

「はい…せ、んせい」

「変なところで区切るな。ちゃんと呼べ、この馬鹿娘」

「うへへ。明日はちゃんと遅刻せずに行きますから!」

「こんなに信憑性が無いと思えるのは貴様の言葉だけだ」

「…事故ってしまえ」

「何か、言ったか?」

「ナンデモアリマッセーン!」

「ったく…さっさと家に入れ」

「はーい!」


はかがんでいた体を起こし、その身を翻した。向かうは目の前のお家。
軽快な足取りで、しかし胸の中は喜びと寂しさを携え、玄関に姿を消した。

完全にドアが閉まるのを確認して三蔵は車を発車させ、街灯が少ない道を走り去る。

そのエンジン音が遠ざかるのをドア越しに聞き、は胸に暖かな感情に想い馳せる。

そして思った。




遅刻も捨てたもんじゃないね!

(貴様はしすぎだ)




ATOGAKI
今回は力を入れすぎて長くなってしまったよよよ。笑
あっははは。管理人には珍しいちょっと弱気なヒロインでした。ホント珍しい!…と思う←
前に悪ノリで考えた学園設定、気に入ってもらえると嬉しいです。詳細は日記の3月10日をご覧ください。
シリーズ化しちゃったら設定描きますが、天変地異も起きない限りシリーズ化は難しいです。とかいいつつちゃっかりするんだろうよこの管理人は笑
これを書いていて思ったんですが、管理人はハンドル手さばきが大好きなようです。HAHAHA!
車運転する人ってカッコイイよねーと、粋がりながら、これからもがんばりたいと思います。
そして、やっぱ八戒さんは必要だ。何事も。笑。では失敬。